10回:田園都市構想と地域経済

 


◎ ビジネスとしての田園都市構想;(その1)小林一三……小林一三(18731957)が梅田から有馬温泉方向に延びる私電に沿って、1910年に分譲住宅地を開発したことは、既に述べた。彼は銀行員出身で、日露戦後の1907年に箕面有馬電鉄の重役になった人物である。要するに、実業家としての主たる実態は私鉄経営者であった(後に、私鉄以外の数多くの企業経営に関わるが……)。

 

 したがって、彼の分譲住宅プランだけでなく、宝塚少女歌劇団の設立、ターミナル駅であった梅田でのデパート開業等々も、私鉄経営者としてのアイディアということになる。小林の場合、このように田園都市構想を私鉄の経営の中で生かそうとしたことになる。この経営手法は、関東における小林の模倣者ともいえる五島慶太によって、拡大再生産されてゆく。

 

◎ (その2)五島慶太……五島慶太18821959)は、東京急行電鉄の事実上の創業者である。前回、渋沢栄一の息・秀雄が田園調布を造成したこと、その企業名が田園都市株式会社であったことを見た。この会社の鉄道部門(荏原電気鉄道)にヘッドハントされたのが、当時、武蔵鉄道という会社の常務であった五島である。五島は後に“強盗慶太”と呼ばれるように、豪腕によりこれら複数の私鉄を統括するようになり、池上線の前身である池上電気鉄道をも含めて東京横浜電鉄を成立させた。後の、東京急行電鉄である。

 このように五島には様々な伝説や風聞がつきまとうし、小林と同様、戦時期に大臣となり、公職追放となったりしている(なお、小林は大臣になった時期が少し違い、追放されていない)。それだけではなく、東横線のターミナル駅にデパートを作ったり、田園都市構想に思い入れを込めたりした点も、小林の影響もしくは模倣だという説がある。
 

五島と田園都市構想との関わりは、洗足や田園調布のような戦前における田園都市株式会社による造成に、私鉄部門(目蒲線と東横線)から関与した所に始まる。彼は公職追放が解かれた後、東京急行電鉄の相談役に復帰し、1953年には“城西南地区開発趣意書”を作成し、“日本版レッチワース”を作ろうとした。これが、多摩田園都市である。その範囲は、行政体として川崎市、横浜市、町田市などにおよび、40年以上に渡る土地区画整理が行われた。ここを走る東急電鉄の路線が、田園都市線。たまプラーザ、青葉台、つくし野など、洒落た命名の郊外住宅街となっており、累計人口は50万人以上にのぼる。

 

ともあれ、“田園都市”は以上のような経緯で、今も東急グループのCI(コーポレイト・アイデンティティ)となっていると考えられる。

 

 

◎ 大平内閣における田園都市構想のリバイバル……井上友一らによる日本への紹介、小林一三や渋沢栄一・秀雄、五島慶太らによる実現から半世紀余を経て、田園都市構想は1978年に首相となった大平正芳(19101980)により、田園都市国家構想としてリバイバルする。【→この点については、このサイト(pdfファイル)を参照】

 

 大平によると、都市のもつ高い生産性と田園のもつ豊かな自然を融合させることを目指すとしていた。このような構想のベースとなったのが、20世紀初頭の内務省『田園都市』であったとされる。そのため、同書は大平内閣がこの構想を提唱したことに伴い、『田園都市と日本人』として再刊されてもいる(講談社刊)。なお、この構想のブレーンは、香山健一であったという。しかし、大平の急逝により、この構想は実現を見なかった。

 

 

◎ さらなるリバイバル……前にも触れた五全総に相当する“21世紀のグランドデザイン”(1999年;本授業第8回参照)において、田園都市構想は再びリバイバルする。この構想の審議委員の一人だった川勝平太は、“ガーデンアイランズ構想”とう呼び方でこれを位置づけた。

 

 川勝によると、江戸は暮らしの中に緑が育てられ、生活と庭が一体化していた。むしろ、そうした江戸の姿が“ガーデン・シティ”として外国に伝えられ、ハワードによる都市づくりのモデルとなったという。

 

 たしかに、東京において明治以降に公園化したスペースの内、新宿御苑(新宿区+渋谷区)は信濃高遠藩の下屋敷、六義園(文京区)は柳沢吉保の下屋敷、後楽園(同)は水戸徳川家(とくに光圀)の庭園、浜離宮恩賜公園(中央区)は甲州藩松平家の下屋敷であった。このように、江戸には大名屋敷やその庭園跡が大きなスペースを占めていた。また、いずれも徳川家の祖先祭祀と関わる寛永寺(上野)と増上寺(芝)のように、広大な寺社領を付与された寺社もあり、それらも広大な緑のスペースであった。

 

 しかし、このように江戸に緑が豊かだったのは参勤交代という制度(前者)および将軍家の存在(後者)という、江戸なる都市空間の特殊事情であった。どの藩も江戸屋敷に力点が置かれていたため、例えば加賀藩における金沢では、外様大名であるため寺社領に朱印地が存在せず、寛永寺などとは比較にならぬほど狭い寺社領しか存在しなかった。また、武家屋敷の庭も江戸のそれとは比較にならぬほど狭いスペースでしかなかった。

 

 したがって、近世における地方都市まで川勝のいうような“ガーデン・シティ”と位置づけることができるかは、かなり疑問であろう。


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