【要旨】修験道系柱松における神仏関係:戸隠・妙高・小菅山の比較 【→本文はこちら】
『神道宗教』第201号、2006年1月刊、1-24頁
On
Relation between Shintoism and Buddhism in the “Hashiramatsu” Ritual related Shugendo: focusing on the comparison among
Mt.Togakushi, Mt.Myoko and Mt.Kosuge
YOSHITANI Hiroya
in, Journal of Shinto Studies [published by the Society of
Shinto Studies], #201,
Jan.,2006, pp.1-24
要旨
柱松を、木の幹・枝などを縛って柱状に立てた祭具、およびそれに点火する儀礼を総称する用語とする。夏の盆の頃に何らかの霊魂を迎える意味づけで行われるものと近世などに修験者が関与したものとがあり、両者の性格はかなり異なる。
本稿は、そのうち後者の現存する典型例と考えられる新潟県妙高市関山神社および長野県飯山市小管神社の柱松に、現在は廃絶しているものの戸隠三院(現・三社)で近世まで行われていた柱松を加えた三者を対象事例としてとりあげ、そこに見られる神仏関係に注目して比較考察することを目指す。
本稿で神仏関係に注目する理由について、記す。柱松は一九一〇年代に柳田國男が分析対象として発見して以来、その意味づけはもはや出尽くしている。それに対し本稿は、こうした意味の探求が本質・古型への遡及に傾くことを避け、柱松をとりまくいわば文脈を求めるために、神仏関係に焦点を置くことにした。
立論は、中世に柱松が行われていたことが唯一確実な戸隠について検討したうえで、三者の近世における組織を概観し、最後に柱松をめぐる儀礼群における神仏関係を比較考察しようと思う。
まず、中世戸隠については、『戸隠山顕光寺流記』と『三峯相承法則密記』の検討を主体とし、とくに後者における修験者の入成に先がけての柱松、という位置づけに注目する。
近世組織については、とりあげた三事例とも、川中島合戦や上杉景勝の会津・米沢移封の影響を受けたが、戸隠および妙高は天海の弟子とされる別当俊海により、東叡山末の天台寺院として再興された。とくに戸隠では院坊数に変化はあるものの(五二坊から三六院へ)、近世を通して奥院・中院・宝光院それぞれに衆徒の住む坊舎があり、中院に別当が住んでいた他、社家が一家あった。
対して小菅山元隆寺は景勝の転封に伴って旧・別当も米沢へ移転した後、新義真言宗の別当・大聖院を中心に三十から四十余と言われる数の衆徒が、小菅山中腹に上・中・下の三院に分かれて集落を形成する形で再興され、他に社家が一家あった。ところが、この衆徒の数が一八世紀中頃までに四院坊に減ったことが確認でき、相対的に社家の勢力が上昇したと考えられる。
以上を踏まえ、三事例における神仏関係を検討した。戸隠と妙高では、おおむね権現社(本社)前に柱松が立てられ、権現社内での仏事や社前での長刀演舞の後、衆徒が点火競争に携わったらしい。以上の仏教的宗教者だけでなく社家も祭礼に関与したらしいが、付随的な役割だったと推察される。
対する小菅山で柱松が立てられる場所は、戸隠や妙高と異なり講堂の前である。さらに柱松関連の儀礼に関わるのが近世には修験とされ、これに並行して現在と同じ里宮から講堂前への神輿渡御が社家らによって行われていた。
このように小菅山で柱松を巡る儀礼群に神輿渡御が重要な位置を占めたのは、近世後半の小菅山における社家と別当・衆徒との対抗関係の所産と考えられる。
キーワード 柱松 修験道 神仏関係 戸隠 妙高 小菅山
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